神が舞い降りた町、
高千穂で釜炒り製法に
とことんこだわる
家族経営の小さな茶園

なぜ神々はこの地に舞い降りたのか。宮崎県北西部にある高千穂地方は、天照大神がお隠れになった天岩戸神社、神々が集まった天安河原(あまのやすかわら)、神が降臨した高千穂峡など、いくつものパワースポットがある「神話と伝説の里」として親しまれている。
標高は平地で約300メートル。切り立った山々に囲まれた一帯は、古くからお茶の産地としても知られている。お茶は寒暖差がある霧が発生する土地でよく育つ。甲斐製茶園は高千穂町の山間部にあった。訪れたのは6月下旬。急斜面に広がるだんだん畑では、一番茶を刈り取ったお茶の木から二番茶の芽が青々と伸びていた。

小さな家族経営の茶園が
つくるお茶が注目されている理由

畑の面積は約520アール。茶園の主、甲斐雅也さんは目を細めた。「葉っぱを刈り取ったあとの畑に来てみてください。お茶の香りがぷうんと漂って、なんともいえずいい感じなんです」
甲斐製茶園は祖父の代から始まり、これまで70年間にわたりお茶を作り続けている。働いているのは甲斐さんと甲斐さんの妻、そして甲斐さんの両親の4人。ところどころ、パートの手も借りながら栽培から製造、出荷、販売まで手がけている。
この小さな家族経営の茶園がつくるお茶が注目されている。2015年、お茶の品評会で最高峰とされる全国茶品評会で農林水産大臣賞を受賞。数々の品評会で入賞を重ねている。
なぜ甲斐製茶園のお茶は評価されるのか。ここで甲斐が作っているのは「釜炒り茶」と呼ばれる緑茶。高千穂では日常的に飲まれている、ごくふつうのお茶である。
緑茶は作り方によって、2種類ある。一つは蒸した茶葉をもみながら乾燥させてつくる「煎茶」。もう一つが、茶葉を生のまま高温の釜で乾燥させる「釜炒り茶」である。釜炒り茶は、煎茶と比べて色鮮やかでさわやかな香りをしているのが特徴だ。「特別なことはしていませんが、おいしく飲んでいただきたいという気持ちは忘れたことがありません」そう言って甲斐さんは、自作の釜炒り茶をいれてくれた。お茶は澄んだ琥珀色をしている。湯呑みを手にとると清々しい(すがすが)しい香り。口に含むと、えぐみも渋みもなく、一点の曇りもない味がする。その見事さに息をつき、時が止まったような錯覚を覚え、「ああ、お茶で一服するとはこういうことなのか」とあらためて思う。

煎茶全盛のいま、なぜ高千穂の地で
釜炒り茶を作り続けているのか

甲斐さんよると、釜炒り茶は15世紀ごろ、中国から伝わった。もともと日本で飲まれていた緑茶は釜炒り茶だという。つまり日本のお茶の原点にあるお茶だという。
ただし、釜炒り茶はつくるのに手間がかかり生産性も低い。そのため江戸時代以降は煎茶が普及していった。いま日本で飲まれているのは圧倒的に煎茶だ。お茶の生産量のうち、釜炒り茶が占める割合は1パーセントに満たないという。
そういう状況の中で、なぜ高千穂地方には釜炒り茶が残っているのか。甲斐さんは言う。
「理由はわかりません。でも、私たちにとってお茶といえば釜炒り茶なんですね。お茶をつくるようになり、いろいろなお茶があることを知りましたが、やっぱり釜炒り茶が一番しっくりきますね。いつも飲んできましたから」
甲斐さんは1974年、3人きょうだいの第1子として生まれた。集落には樹齢800年を超えるケヤキやスギの巨木で有名な下野八幡大神社がある。子どものころ、甲斐さんはこの境内で集落の子どもたちと日が暮れるまで遊んだという。
「将来の夢ですか?農家の長男ですから。家を継ぐのが当たり前だって思っていました」
高校卒業後、静岡県にある農林技術研究所で2年間、寮生活を送りながら栽培から製造まで学んだ。実家に戻ると、父の清仁さん、母の加代子さんを支えて茶園で働く。30代半ばで、年金をもらうようになった清仁さんから、「そろそろお前が中心になってやれ」と任された。
だが、農業は自然が相手だ。お茶作りに従事して30年近く経ったいまでも、わからないことが多い。奥が深い世界だという。

ペットボトルで一変したお茶業界。
甲斐さんが出した結論とは?

作物にはささいな気候の変動も影響する。毎年、まったく同じお茶の葉をつくることはできない。人ができることは限られている。毎日、欠かさず畑を見まわり、異変がないかチェックする。収穫を終えた時期の降雨量も葉の生育にかかわってくるから、365日、気が抜けないという。
細心の注意を払うのは製造の場でも同様だ。その年によって葉の成長は微妙に違うので、状況を見て作業を微調整する。鉄釜の温度は約300度。うだるような熱さの中で何度も茶葉を抜き取り、手でさわり、目で確かめ、香りをかぐ。
いいお茶に仕上げられるかどうか。最後に頼りにするのは、長年の経験に裏打ちされた「職人」としての五感だ。緊張した作業が深夜や朝方まで続くこともよくある。

妻の未来さんは夫が作業場にいるときは、近寄らないようにしているという。「険しい表情をしているときが多い。だからなるべく話しかけないようにしています。特に賞をいただくようになってから、本人は口には出さないけれど、プレッシャーも相当あるんだと思います」
お茶を取り巻く環境は大きく変わっている。1990年にペットボトルに入ったお茶が販売されてから、お茶はペットボトルや紙パックで飲むというスタイルが定着した。いまや急須をもっていない家庭も珍しくはない。その影響もあってか茶葉の需要は減少し続けている。
いいお茶を作ったからといって売れるとは限らない時代、どうしたら自分たちがつくるお茶を飲んでもらえるのか。甲斐さんが出した結論はブランディングと直販だった。2016年、熊本大地震の発生で設けられた助成金を活用、東京のデザイナーと組んでHPやデザイン性の高いパッケージを作成し、eコマースも始めた。マーケットを開拓するため、ティーバッグを作った。商品の多角化も進め焙じ茶やウーロン茶、いま人気の和紅茶も商品のラインナップに加えた。そのおかげで売上高は直販を始める前の1.5倍に増えたという。

「できることは全部してあげたい」という
お茶作りへのこだわり

現在は有機農法による栽培も始めている。これまでは化学肥料を使うと収穫量が増え、茶葉の味も濃くなるが、香りの点で課題もあった。有機栽培に変えることで、より味も香りもよい高品質のお茶をつくろうとしている。
甲斐さんは口癖のようにいう。「よいお茶をつくるために、できることは全部してあげたい」
そのこだわりは、どこからくるのだろうか。お茶の産地として知られた高千穂でも年々、生産者の数は減っている。甲斐さんが暮らす集落でも、お茶を栽培する農家はかつて8軒あったが、いまは4軒である。
甲斐さんはHPに書いている。
〈長い時間を経て私たちに受け継がれた高千穂釜炒り茶〉
〈昔ながらの釜炒りという製法を次の世代へ、ちゃんとつないでいくことも私たちに課せられた大切な役目です〉
甲斐製茶園には地元の小・中学生が遠足や体験学習に訪れる。この土地の人々が作り、飲んできたお茶のことを少しでも知ってもらいたい。そしてこれからも飲んでいってもらいたい。そんな思いから、甲斐さんは子どもたちにお茶をふるまい、ときには自ら厨房に立って茶葉の天ぷらを作り食べさせる。
その後ろ姿は甲斐さんの3人の息子たちにもしっかり伝わっているのだろう。長男は「家業を継ぐ」と農業大学に進み、高校生の二男も中学生の三男も「将来はお茶作りに携わりたい」と言いだしているという。
神が舞い降りた町、高千穂では代々、神の前で歌って踊る「神楽(かぐら)」の伝統も引き継がれている。
神楽は神と人々が楽しみと喜びをともにしながら、秋の実りを祝い、翌年の豊穣を祈願する儀式だ。昔から集落ごとに行われ、甲斐さんも子どものころから踊ってきた。いまも国の重要無形文化財に指定された高千穂神社の「夜神楽」の舞台に立つ。
「子どものころは田舎やなあと思っていました。でもいまは、奥深い歴史があって、たくさんの神々を近くに感じられる高千穂を誇りに感じています」
高千穂に降り立ったといわれている神、ニニギノミコトは農業の神としても知られている。甲斐製茶園の「伝説」は始まったばかりなのかもしれない。

取材・文:森 一雄
撮影:コバヤシ