日本の三名水とされる丹沢山系の水。
明治30年(1897)に創業し、地元や全国の通な日本酒好きに支持されている
銘酒「丹沢山」を有する川西屋酒造店は、
この丹沢山系を源とする酒匂川(さかわがわ)からの
豊かな伏流水を仕込み水として利用しています。

川西屋酒造は神奈川県内13軒の酒蔵の中でもとりわけ“お燗して美味しい、
食中酒としての純米酒”にこだわっています。
なぜ、定期的に沸き起こる日本酒ブームに迎合することなく、
独自の酒造りを貫き通しているのでしょうか?

地元・足柄の米と丹沢山系の伏流水

1897年に“酒匂川の西側”の地で醸造業を営んだことから名付けられたという川西屋酒造店。その酒匂川の支流である滝沢川から流れ落ちる洒水(しゃすい)の滝は「日本の滝百選」「名水百選」「かながわの景勝50選」「かながわ未来遺産100」にも選ばれている名瀑(めいばく)です。

「洒」の字は「酒」に似ていますが、「瀟洒(しょうしゃ)」「洒落(しゃれ)」という言葉に代表されるよう、「さっぱりとしているさま」を表す漢字。「洒水」とは密教用語で「清浄を念じてそそぐ香水」を意味するそうです。

JR御殿場線山北駅から車で約10分。神奈川県西部の山北町に川西屋酒造店を訪ねたのは、二十四節気の大雪(たいせつ)を過ぎた12月半ばのことでした。明治30年の創業で、2022年には東京国税局酒類鑑評会の清酒純米燗酒部門で「丹沢山 吟造り純米酒」が優等賞を受賞。これまでも高評価を獲得してきた歴史ある酒蔵です。

川西屋酒造店の大きな特徴――それは地元・足柄の酒造好適米「若水(わかみず)」や丹沢山系の伏流水を仕込水に使って、燗酒にぴったりな純米酒を造ること。

日本酒の原料は米、酵母、それに水。特に水の果たす役割は大きく、日本酒では水が約8割を占めるといいます。また、酒米(酒造好適米)には山田錦などさまざまな種類がありますが、川西屋酒造店は先代である3代目蔵元・露木良胤さんの時代に地元・足柄で酒米を作ることに着手。地元農家や農協とタッグを組んで酒米作りにも尽力してきました。

川西屋酒造店の蔵人たちも田んぼをたびたび訪れたり、稲刈り時期になると手伝いに駆け付けたりするのだとか。

執筆者が訪れたのは朝8時ごろ。蔵の中には、2時間ほど蒸された米の湯気が漂い、優しい香りが蔵の外まで流れていました。工場長の米山繁仁さんが蒸し米をひとつまみ味見させてくれましたが、食事のご飯とも違う固めの触感ながら、噛むと香りが鼻腔に残りました。

複雑な酒造りの工程を“密連携”で進めていく

この日も夜明けから蔵人や近隣から集まったスタッフたちが、ベテランも若手も絶妙なチームワークで「酛(もと)立て」に取り組んでいました。一般には耳慣れない「酛立て」とは、平たく言うとブドウ糖をアルコールに変える酵母を増やす工程のこと。大量に増えた酵母は「酒母(しゅぼ)」と呼ばれており、麹、水を混合させた「水麹」に蒸し米を加え、日本酒に仕上げていくには膨大な酵母が必要なのだそうです。

蒸し米を布の上ですばやく手でほぐして熱をとり、袋に詰めてすばやく同フロアの酛場(もとば)や2階の麹室(こうじむろ)や醪場(もろみば)へバケツリレーのように急いで運ぶ光景は緊張感が漂います。でも、決してピリピリしているわけではありません。他県からインターンとして酒造りに参加しているというZ世代の男性も、こぼれる笑顔で先輩たちからアドバイスをもらっていて、和やかなムードです。

12月から年明けまでの酒造期には、何人かの蔵人たちが共同生活となるそうです。休憩時間や食事の時間もテーブルを囲んで幅広い世代の人たちが家族のように談笑しています。夜は自社の日本酒を酌み交わし、たわいのないことから酒造りの真剣な話まで腹を割って語り合う――こうした環境が、「いい酒を造る」というゴールに向かって一致団結するチーム醸成にひと役買っているのでしょう。

酒造りの中でも工程がいちばん複雑と言われる日本酒造り。無事に商品化できるまで、こうした“密連携”が支えているといっても過言ではありません。

「うちのような小さな酒蔵だからこそ、かかわる全メンバーが酒造りの全工程にコミットできるんです」と笑顔で語るのは、若き醸造責任者の二宮悠さん。神奈川県平塚市に生まれ育ち、約10年前に川西屋酒造店へ入社。酛屋(酒母づくり担当)、醪屋(醪造り担当)を経て2019年から現職に就いた現場のエースです。

「私たちはこうして昔ながらの酒造りを守っているので大変なことも多いですが、その一方で極限まで手を入れることができます。機械を使って造るのでは、大手酒造メーカーと変わらなくなってしまいますから」(二宮さん)

川西屋酒造という歴史ある酒蔵のアイデンティティを守っているのは、蔵人の妥協しない姿勢と「最高の米で純米吟醸酒を造りたい」という思い。

守りの姿勢の一方で、新機軸にも積極的にチャレンジしています。若者が好みそうな、ポップなラベルが季節限定ボトルに採用されたり、「燗グリア」という地元産フルーツを燗酒に合わせた飲み方が発案されたり、若手ならではのアイデアを実現しやすい風通しの良い職場でもあります。

「個人的にもうちの日本酒がいちばん好きだし、美味しいと思っています。これからもメンバーたちと川西屋らしいお酒、お燗して美味しいお酒を追求していきます」(二宮さん)

燗酒はオールシーズン楽しめる
“健康的な食中酒”だった

二宮さんが言うように、川西屋酒造のお酒はすべて純米酒。燗酒に徹底してこだわっていることが大きな特徴です。

酒造りの見学の後、川西屋酒造店4代目の露木雅一さんにお話を伺いました。露木さんはワイン会社の会社員を経て、1986年に家業である川西屋酒造店に入社し、2006年に代表社員に就任しました。

「まずは味わってみてください」と、老舗酒造ならではのレトロな燗つけ機とおしゃれなフラスコ状お燗酒器で「丹沢山」を飲みごろまで温めてくれています。フラスコの球状の中で60度ぐらいに温め、対流させることで、お酒の旨味が引き出されてくるのだとか。

「燗酒は寒い季節限定の飲み方だと思っている方が多いですが、実はオールシーズン楽しめる飲み方なんです。燗酒は究極の食中酒。飲みながら食事すると食欲が湧くので、バーベキューにも合わせたりします」(露木さん)

暖かい季節でも、屋外でバーベキューしながら寸胴鍋にお湯を沸かし、一升瓶をそのまま入れて湯煎し、燗酒にしてみんなで酌み交わすこともあるのだとか。意外だったのは、お燗のほうが冷や酒より体に負担が少なくて健康に配慮されているということ。

「冷や酒を飲み過ぎると体が疲れちゃう。燗酒は二日酔いにもなりにくいし、翌朝の寝起きの気分もいいですよ」(露木さん)

その理由は、アルコールは人の体温に近いほうが吸収されやすいから。お燗することで酔いをすぐに感じられるし、ほろ酔い状態が長く続くので体へのダメージが少ない。冷や酒は体の中に入って温められるまで時間がかかるので、飲み過ぎてしまうそうです。

露木さんはコップで冷や酒を飲むのは「昭和初期あたりまではせっかちな職人や労働者の飲み方だった」と説明します。

「そもそも日本酒は1000年以上前までは貴族しか飲めない高価なもので、お燗して平杯で飲んでいたんですね。主食であり、貨幣代替わりにも使われていた高価なお米で造っている日本酒は神に捧げるものでもありました。江戸中期以降は米の栽培も安定し始めてきて、庶民の手にもだんだん届くようになった。でも、日本酒は酔うためのものじゃなくて味わうためのもの。お燗して平杯やお猪口で、食事と合わせて飲んでほしいですね」(露木さん)

“お燗”し過ぎても壊れることのない川西屋酒造の酒

お燗をつけるには専門の温度計が必要と思っていたのですが、この「丹澤山 DO KANZAKE 平底フラスコ」はお酒の膨張で適温が測れるという優れもの。

「だいたい70度まで来ましたね。ここで止めておきましょう。これぐらいの温度でも美味しいんです。うちのお酒はタンクで1年も2年も低温で寝かせてあるのですが、60度ぐらいでお燗することで旨味が目覚めるんです。昆布で出汁をとるイメージが近いかな」(露木さん)

60度程度となった「丹沢山」の燗酒を口に含んだとき、洗練のなかにもどこか懐かしい、透明感のなかにも優しい米の香りが漂い、余韻を残しながらスッキリと消えていきました。なかなか抜けずに澱(おり)のように残っていた疲れや感情の沈殿がクリアになっていくような気がして、「清浄してくれる香水のような飲み物」という表現がしっくりきます。

小田原駅そばに「天史朗寿司」という遠方からも訪れる人気寿司店があります。こちらでも「丹沢山」の燗酒が味わえるのですが、ご主人が忙しいとお燗したままになって、80度近くなることも。「でも、そこまで熱くしてもうちの酒は壊れることがないんです。冷めてくるとちゃんと美味しくなる」と、露木さんは矜持(きょうじ)を宿した眼差しで言います。

お猪口にそっと注ぎ、舌を湿らすように味わうと、張り詰めた糸がほどけていくように、体の細胞一つ一つにやさしくアルコールが溶けていくようです。

「たとえばこの燗酒を天史朗さんの〆鯖と合わせると……鯖がまず口の中でトロのように溶け、酸味が効いて薬味の風味が残る。そこで燗酒をキュッと口に含むと、米の旨味がふわっと広がってスッと消える。それでもう少し食べようかな、と食が進み、気が付くと7合ぐらい飲んでしまうなんてこともある」(露木さん)

お酒がスタンドプレーすることなく、料理と和合する。それこそが、燗酒が“最高の食中酒”たる所以でもあるのでしょう。

お燗することで「味わうための酒」となり、
美味しい料理をふるいにかける

ただ、燗酒には一つ弱点があると言います。

「まずい料理と合わないんです(笑)」

まずい、と露木さんが言うのは化学調味料で味をごまかしている料理のこと。特に出汁は重要な要素です。

「純米酒の米の旨味と和食の出汁の旨味の相性は抜群で、ふわっと広がってさざ波がひくようになる。化学調味料を入れている料理と燗酒を合わせると、化学調味料の苦みが広がってしまうんです。極端な例を挙げますが、化学調味料の入ったラーメンに燗酒はまったく合いません」(露木さん)

和食屋や居酒屋で燗酒を飲んでみて、あまり美味しく感じないことがあったら、それは合わせる料理がまじめに出汁をとっていない証拠。料理人の仕事の丁寧さをふるいにかけてしまうのも、燗酒。

また、会話のなかで露木さんが時々用いる表現に「タンクで枯らす」というのがあります。この表現に込められたのは、「ボジョレー・ヌーヴォーのような日本酒でなく、ヴィンテージワインのような純米酒を目指しているんです」という思い。

「燗酒に向く日本酒はそうそうありません。片手で数えられるかどうか、というぐらい。
都内に出かけて美味しい和食を作る料理人を探し出して、置いてもらうということもしてます。ただ、忌憚(きたん)のないやり取りができるよう、ズブズブにならないよう、距離感は大事にしています。自分で美味しいものをちゃんと食べて、そこにうちの酒が選んで価値を見出せる人に飲んでほしいですね。それが最終的にうちの会社の価値が上がる方向に向かっていくと信じています」(露木さん)

いわゆる特A米といわれるブランド米もなく、「米どころ」の印象がない神奈川県で造られている川西屋酒造のお酒。地元の米と水、空気が詰まった純米酒で、燗酒という日本酒の基礎にとことんこだわる信念と関わる人たちの酒造りへの愛に触れ、日本人の美しい精神性を垣間見た気がしました。

取材・文:奈良岡周
撮影:コバヤシ

Information

名  称/合資会社 川西屋酒造店
住  所/神奈川県足柄上郡山北町山北250
最寄り駅/山北駅から徒歩約18分
TEL/0465-75-0009
URL/https://kawanishiya.stores.jp/