story

008

宮城県仙台市

株式会社仙台協立

東北最大の100万人都市、仙台
定禅寺通りから、
新たな産業を生む街づくりに挑む

街づくりは、人の営みをつくること。
貸しビル業から学んだ、
街を動かす力

この道を歩くと「仙台に来た」と実感する旅行者も少なくないだろう。「杜の都・仙台」を象徴する定禅寺通り。長さ1.4キロの通りの中央分離帯にはケヤキ並木の遊歩道が設けられ、市民の憩いの場になっている。
新緑も紅葉も楽しめるこの場所では、春に青葉祭り、夏に七夕祭り、秋はストリートジャズフェスティバル、冬はイルミネーションイベント「SENDAI光のページェント」が開かれる。「日本の道100選」にも選ばれている。地上10階建てのビル「定禅寺通ヒルズ」はその沿道にあった。

東北最大の繁華街・国分町が目と鼻の先に広がる一等地。「定禅寺ヒルズ」の屋上部分はキッチン付きのレンタルスペースとして貸し出している。眼下にケヤキ並み木を見下ろしながら、飲食を楽しむことができるという。
「街は楽しむものでもある。楽しい空間、すてきな空間が増えたら、人々が街に来るようになる。にぎわいもできる。このエリアはまだまだ可能性に富んでいると思います」。このビルの地権者、株式会社仙台協立の社長の氏家正裕さんはそう話す。
氏家さんは地元仙台で熱心な街おこしの仕掛け人として知られている。かつてエリアの住民、地権者、事業者などが集まり結成された「定禅寺通活性化検討会」の幹事をつとめた。検討会は定禅寺通エリアの魅力向上や発展について検討し、ミーティングや社会実験を重ねた。2022年、街づくりの基本構想をまとめ市に提出している。
基本構想は「定禅寺通街づくり協議会」に引き継がれ、その社会実装を担う目的で設立された一般社団法人「定禅寺通りエリアマネジメント」の代表理事に就任し牽引役をつとめることになった。
だが、とこう話す。「もともと街づくりとか地域の活性化とかまったく興味がありませんでした。むしろ、そういうことは興味がある人がやればいいことで、自分には関係ないと思っていました」。
氏家さんが社長をつとめる仙台協立は1961年、祖父の氏家正巳さんによってつくられた。正巳さんは土木技師。土木会社を経営していたが、安定した経営を考え、仙台にビルを一棟建てて、貸しビル業に転じたという。
「僕は三代目のぼんぼん。将来のことなんて深く考えてなかった。一度は東京で働くのも面白いかなと思って、大学卒業後、上京してみたんです」と話す氏家さんは都内の橋梁会社に就職、4年半サラリーマン生活を送り、1998年、仙台に戻った。「いろいろな事情が重なったのですが、正直に言うと、なんとなく。帰る理由ができたって感じですかね」
ビジネスに開眼したのは、仙台に戻ってから。地元の青年会議所に出入りするようになったのがきっかけだ。「経営について何にも知らなかったのでなんかの参考になるかなあ、と顔を出した」
父親からは「貸しビル業で大切なのは一にも二にも堅実性。毎月、賃貸料が入るのだから、何もしなくていい」と言われていた。だが、ギラギラとした目でビジネスについて語る先輩経営者たちに刺激を受けた。負けん気と探究心に火がついたという。
「手っ取り早くお金もうけができると思って」。家業とは別に会社をつくってレジャーホテルの経営を始める。「カップルで利用するレジャーホテルは1室の利用回転率が高い。シティーホテルとか比べものにならないくらい、売り上げが立ちました」

2006年に父から貸しビル業の経営を引き継いでからは、レンタルスペース事業、マンション事業などにも進出した。積極的に投資も行う。父から引き継いだとき4棟だった自社ビルはいま12棟に増えている。自社グループ「SKG(仙台協立グループ)」は傘下に6社をおさめ、総従業員数300人に上る。
だが、過去には手痛い失敗もあったという。レジャーホテルの経営を始めて間もない頃、会社の売り上げを伸ばすことに熱中するあまり、社員たちの待遇をまったく考えなかった時期があった。その結果、次々と社員たちが退職。残った社員は離反し、誰も言うことを聞かない。やむを得ず、1年間、自らホテルに泊まり込んで働いた。「売り上げの数字が出ていたので、完全に思い上がっていました。誰のために仕事をするのか、つくづく考えさせられた。今にいたるまで、このときの経験が一番、勉強になったかもしれません」。

もともと興味がなかった街づくり。
実は社業と一体だということを知った

街づくりに関わるようになったのは2016年、きっかけは一本の新聞記事だった。仙台市が官民連携で進めているリノベーションによる街の活性化事業がうまくいっていないと書いてあった。
貸しビル業とリノベーションは密接な関係にある。なにかビジネスチャンスがあるかもしれないと思って市に連絡してみたところ、「あなたも街づくりに関わってください」と言われた。その流れで定禅寺通エリアの活性化の話がもち上がると、声がかかったという。
市の職員や地域の住民、街づくりに関心がある学生たちとの交流は新鮮だった。「若い世代は純粋ですから。街づくりがしたいといってうちの会社に新卒で入ってくる学生も出てきた。『これはいいかげんなことはできないぞ』と、抜けられなくなった」と笑う。
その場で出会った街づくりのコンサルタントから「敷地に価値無し、エリアに価値あり」という言葉を聞いたことも刺激になった。コンサルタントは銀座のビルの資産価値が高いのは、ビルに価値があるからでなく、銀座というエリアに価値があるからだと説明した。「当たり前といえば当たり前ですが、自社物件の資産価値をどう高めるかばかり考えていたので、目からウロコでした。それまでは物件の価値が上がれば、そこに人が集まり、エリアも発展すると逆のことを考えていた。そうか、地域の活性化と社業は一体なんだとあらためて気付かされました」。

変化しないで生き残れる街や
都市はない

東北最大の都市、仙台は人口減少の時代でも、東日本大震災の被災者らが移住し、100万人都市を維持している。
だが、氏家さんたちが調査したところによると、再開発が進むJR仙台駅周辺には人が集まっているものの、定禅寺通エリアは、歩行者の回遊率は低い。ビルやマンションなどの築年数も半数以上が30年以上を超えている。
子どものころに過ごした石巻は造船業や遠洋漁業で栄えていたが、産業の衰退とともに廃れていった。「衰退した理由は補助金頼みになって、自分たちで変わろうとしなかったからだと聞いた。今の日本はかつて経験したことがない人口減の時代。変化しないで生き残れる街や都市はないと思います」

街づくりの基本構想では、2030年までに世界に誇るケヤキ並木や遊歩道を生かした「人が中心の空間づくり」をすると掲げている。多様性を尊重し、歓楽街の国分町や官庁、オフィス街を抱える東側部分は24時間楽しめる商業エリアに、マンションの建設が進み子育て世代も増えてきた西側は生活中心のエリアにする計画になっている。

会社や属性の垣根を越えて、
街の未来を創る
「定禅寺通シリコンバレー計画」とは?

そして、氏家さんがいま力を入れているのが「定禅寺通シリコンバレー計画」の推進だ。仙台は都市の規模の割には上場企業も少ない上に、起業しても定着する人が少ない。このエリアにシリコンバレーのように、イノベーションに関心がある会社やクリエイティブ人材を集め、新たなビジネスや産業を生んでいくようにするという。
「会社や属性の垣根を越えて、イノベーション精神に富んだ本気の雑談の場を作りたい」。今年1月、地元企業2社と組んで、定禅寺通ヒルズの1フロアに「IDOBA(イドバ)」を開設した。ユニークなネーミングは「井戸端」にちなんでつけられた。
コンセプトはフリーランス、社員、学生などが集う、コワーキングスペースでもシェアオフィスでもない、新たな価値を創出する「イノベーションプラットフォーム」。ほかのフロアでは、ビルに入居している企業とIDOBAにいるフリーランスや氏家さんの社員が一緒のスペースで働くなど、「現状維持」を打破する試みも始めた。
 常は常にあらず。日々、目にする街の光景も、実際には時間の経過とともに少しずつ変化している。定禅寺通のケヤキ並木は1958年に植えられた。60年かけて、いまの枝ぶりに成長し、杜の都・仙台のシンボルになった。10年後、20年後、このエリアはどんな風景を見せているのだろうか。

氏家さんは大学時代に始めたトライアスロンを30年以上、続けている。時間を見つけて練習に励み、国内外を問わず大会に出場し、年齢別の日本代表に選考されたこともある。「僕は運動能力はないけど、ハマる能力と続ける能力はありそう」と笑った。一途な人なのだろう。

取材・文:森 一雄
撮影:コバヤシ

Information

名  称/仙台協立グループ
住  所/宮城県仙台市青葉区国分町1丁目8-14
TEL/022-222-6862
URL/http://www.s-kyoritsu-group.jp/